忘れないこと。
2025年3月11日 21時37分こんばんは、村瀬です。
今日は一日、ぐずついた空模様でした。
運動場からの声は届きませんが、
校舎の各所から元気な子どもたちの声が響いていた、
本日の東小学校でした。
ご存じのように、今日は日本にとって、
記憶に残すべき大切な日です。
東日本大震災が発生してから、
今日で14年目を迎えます。
オフィシャルぶろぐ「本日のオレンジキッズ」に記したように、
本校では全員で黙祷(もくとう)を捧げ、
震災で犠牲になった方々に哀悼(あいとう)の意を示すとともに、
被災された方々のご多幸を祈りました。
震災当日、
村瀬は東小学校で6年の担任を務めており、
発生時は子どもたちと体育館におりました。
体育館が揺れはじめると、
子どもたちは訓練通り、速やかに体育館中央に集まり、
頭を守りました。
それまでの地震の経験とどこか異なり、
ゆっくりと長い時間揺れていたように記憶しています。
揺れが収まった後、
子どもたちを下校させ、職員室に戻ると、
東北地方の惨状がテレビに映し出されていました。
その後の日々のことは、
きっと保護者のみなさんは覚えているのではないでしょうか。
様々なことが自粛(じしゅく)され、
東北地方だけでなく、
日本全体に暗い靄(もや)がかかっているような毎日でした。
すぐに卒業式を迎えたわけですが、
I校長(現教育長)の式辞や、来賓の方々の祝辞には、
無事に式が行えることの幸せに触れられた部分がありました。
震災が起きて一年と少しが経った頃、
現地のボランティアに参加させていただく機会がありました。
メディアでは、復旧・復興がずいぶんと進んだように報道されていましたが、
現地に行って唖然(あぜん)としました。
廃墟(はいきょ)と化した家々。がれきの山の数々。陸に残された大型船。
ヒマワリだけがきれいに咲いている、津波に襲われた小学校。
その時ほど、
メディアが伝えることが真実ばかりではないと痛感したことはありません。
わずか二日間、
側溝(そっこう)に詰まった泥をさらうという、
ごく簡単なことしか、お手伝いできませんでしたが、
ボランティアリーダーの方と話をする機会がありました。
その方はご自身も被災され、
多くの大切なものを失ったとのことでした。
ご自身の辛い体験や被災地の現状など、
多くのことをうかがいました。
そんな会話の中で、村瀬が教員であることを伝えると、
その方から次のようなことをお願いされました。
「ぜひ子どもたちに伝えてください。
本当は、実際現地に来て、自分の目で見てほしいです。
でもそれはとても難しいことでしょう。
だから、『忘れないでほしい』のです。
きっといつか、報道されることもなくなっていくでしょう。
そうしたらきっと他の地域に住む人たちは、
もうすっかり元に戻った、大丈夫になったと思うものです。
でも実際は、違うのです。
失ったものが戻ることはもうないし、
深い傷が簡単に治るものでもない。
忘れないでいてくれることが、
ぼくたちには大きな慰(なぐさ)めになるのです。
だから、忘れないでほしい。
それも一つの、大切なボランティアだとぼくは思います」
村瀬はその約束を守り、この時期になると、
担任している学級や授業に入ったクラスの子どもたちに、
ボランティアリーダーの言葉を伝えてきました。
今年はあいにく、節目の日に授業がないので、
こんなページではありますが、ぶつぶつさせていただいています。
これは何も、東日本の話だけではありません。
阪神・淡路、新潟県中越、北海道南西沖・胆振東部、熊本、能登半島、宮崎など、
村瀬が思い返すことができる大きな地震のだけでもこれだけの被災地があります。
まして、先日発生してしまった山火事をはじめ、
台風や洪水、大雪などの被災を加えたら、切りがないほどです。
「戦争」という惨禍(さんか)も加える必要があるでしょう。
私たちは慌(あわ)ただしい日常の中で、
そんな悲しい出来事でさえ、ついつい忘れてしまいます。
でもそれは、仕方のないことなのだろうとも思います。
しかし、こういった節目節目で立ち止まり、
被災された方々に想いを寄せる。
それはとても、大切なことなのではないかと、
ボランティアリーダーの言葉から村瀬は痛切に感じました。
現在東小学校に通う子どもたちは、
当時のことを誰も知りません。
それだけ、時は流れました。
けれどもきっとまだ、復旧・復興を果たしていない地域や、
元気を取り戻せていない方々もいらっしゃることでしょう。
いまだ故郷に戻ることのできていない方も大勢いらっしゃいます。
そのことを忘れずに、
子どもたちに伝え続けていきたい。
ありふれた日常を送ることがどれだけ幸せであるのか、
そのことも併せて伝えていきたい。
校舎に響く子どもたちの声を聞きながら、
当たり前の日常がここにあることに幸せを感じつつ、
そんなことを考えていた、3月11日の村瀬です。
それでは、また。