令和7年1月17日(金)、今日はあいあい学級と4年2組で社会科の授業を受け持っている日だったので、授業の時間の中で、阪神・淡路大震災の話をしました。
そして、今朝の追悼の様子や当時の映像を見せました。
地震の第一報では、発生の5分後に「岐阜で震度4」と伝えていて、それに驚きました。それから徐々に状況が明らかになったものの、神戸で震度6を観測したことを報道したのは、地震発生の30分後でした。
倒れた高速道路、がれきの下敷きになった車、崩壊した建物、なすすべのない大火災、当時の様々な映像に、子どもたちを前にしながら涙があふれてきました。
震災からしばらくは、いろいろなところで関西の方と会うと、決まって震災の話になったことを思い出しました。
今朝の大阪の放送局MBSの震災特番で中継を務めた、清水麻椰アナウンサーは、震災の年の生まれだそうで、神戸で被災したご両親が、「神戸にちなんだ名前」ということで、「まや」と名付けられたとのこと。
がんばろうKOBE、忘れないKOBE。
早いもので、阪神・淡路大震災から30年がたちました。亡くなられた方のご冥福をお祈りします。
その間にも大震災が各地で起こりましたが、この時のインパクトはかなりのものでした。
わたしは、当時、3月に大学卒業を控えた身。前日1月16日発の東京行き夜行列車に乗り、普通列車で東北方面を目指す旅をする計画でした。17日早朝、東京に着き、上野から東北へ向かう列車に乗りました。
ラジオを聞きながら、ロングシートの列車に揺られていると、関西方面で大きな地震が起こったとの一報が入りました。その後、次々と情報がもたらされ、全身が震える思いでした。私の周りの乗客は、関西で大きな地震が発生し、かなりの被害が起こっているなんて、まだ知らないわけで、そのギャップを抱えた光景が今でも思い出されます。
予定通り列車を乗り継ぎ、たどり着いた会津若松の街を歩いている途中で見たテレビ映像に愕然としました。ラジオで聞いて想像していた以上の惨状でした。
その後も列車を乗り継ぎ、長野から帰宅すべく名古屋経由大阪行きの夜行急行に乗りました。わたしは、愛知の自宅に帰ることができましたが、この列車は、大阪まで行くことができず、名古屋で運行が打ち切られました。
震災発生から数か月たった頃、被害の大きかった辺りに入って、被災の現状を目の当たりにしました。倒壊した建物の数々、焼け焦げた街、途中から無くなってしまった高架道路、テレビや新聞で見て、知ってはいましたが、衝撃的でした。
日本に住んでいる以上、地震被害を避けては通れません。過去の地震被害は、決して過去のことではなく、未来の自分自身に起こるかもしれないこと、として考えなくてはいけません。
令和6年の仕事納めの日を迎えました。教頭の黒木です。
特に大きなトラブルもなく終えられるのも保護者や地域の方々の協力があったからです。ありがとうございました。
さて、私の個人的な今年の重大ニュース、第1位は、なんと言っても、11月2日(土)、国立競技場のルヴァンカップ決勝戦です。6万を超えるサポーターがつくる最高の空間でした。勝っても負けてもいい、この空間にいられるだけで幸せ、と思いましたが、やはり、優勝という結果をつかむことができ、より素晴らしい思い出となりました。
第2位は、志摩グリーンアドベンチャー、ジップダイブできなかった事件。この夏、志摩市に、「志摩グリーンアドベンチャー」という施設ができました。そこの目玉が、うつ伏せで体験するジップライン「ジップダイブ」です。これをぜひ体験したいと、娘と2人で、近鉄特急に乗って、行ったものの、フロントで愕然。「休止」の文字。これを楽しみにしていったのに…。
第3位以下もありますが、ここまでにします。
ご家庭でも今年の重大ニュースを振り返ってみては、いかがでしょうか。
それでは、皆様、よいお年をお迎えください。(←このフレーズが使えるのは、30日までだそうです)
先日、6年生の戦争体験を聞く授業で、日進市在住の92歳の方をお招きして、戦争中の体験談を聞くことができました。
主に、尋常小学校(→国民学校)や国民学校高等科の頃の話をしてくださいました。普段の履物は草履、学校では、裸足、校舎内は、板張りだったことなど、現代の学校生活からは全く想像できない話の連続でした。
92歳の方でさえ、終戦当時は、13歳。戦時中の記憶があっても、戦地に赴いた世代ではありません。戦後はずいぶん遠くになりました。
一方、私の両親は、ともに79歳。3月、4月が誕生日なので、かろうじて戦時中生まれ世代ではありますが、当然そのころの記憶は無し。
ただ、3月生まれの母が、当時暮らしていたのが、福岡県北九州市。8月9日に長崎に落とされた原子爆弾は、当初、北九州市に落とされるものでした。もし予定通りだったとしたら、今の私は存在していなかったのかもとゾッとします。
10年前、父の25歳離れた長兄の伯父に会う機会があり、戦地に赴いた話を少し伺うことができました。90歳を超えていて、戦地の風景は話してくれたものの、実際の戦闘については話してもらえませんでした。戦争が終わって、故郷に戻ったら、生まれたばかりの父がいたそうです。話を伺ってからしばらくして、伯父が亡くなったことを聞きました。
また、25年ほど前に勤めていた学校に、米づくりや炭焼きなどを教えてくれる地元のおじいさんがいました。その方からつねづね戦争中、中国で戦っていた話を聞かされました。さらには、戦争が終わり、命からがら日本に帰ってきたこと、その途中で中国の兵士を殺したこと。
日本では、戦争は遠い昔で、遠い場所のことと思ってしまいます。しかし、地球上では、いまだ戦火が絶えない地域もあるわけで、戦争体験者から聞いた話を次の世代に伝えていくことが、わたしたちに課せられた課題なんだと思います。
今年度も教頭を務めることになりました、黒木です。よろしくお願いします。
先日、このコーナーでおなじみの小玉宏くんが、愛知県のファンの方の招待で、奥さんともども名古屋に来ました。昨年の夏以来の再会でした。
今回は、小玉くんの奥さんの話。小玉くんが宮崎県の指導主事を辞めたのが、10年前の3月末。その10日後、無職になってしまった彼は、結婚をします。無職の男と結婚を決めた奥さんもすごいです。
奥さんは、長年、子どもの学習教室の先生を務めていたそうですが、結婚後、小玉くんとともに、大分県国東市で古民家を購入して、移住をします。さらに、古民家をリノベーションを手伝ったり、農家の仕事をしたりすることになります。
そして、この春、奥さんは地元の高校の非常勤講師になったそうです。英語の免許を持っているにもかかわらず、担当は農業。もともとは、かつて先生をしていた小玉くんにオファーが来たそうですが、農業なら奥さんがいいのでは、と紹介し、臨時免許で、このたび採用となったそうです。
夢に向かって突き進む人生もありますが、どこでどう転がるか分からないのも人生ですね。